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2011年4月27日 (水)

機関車トーマスがあまり好きではないことほか(駄文)

注:手持ち無沙汰の待ち時間にタイプの練習のつもりで打ち込んだ文とも言えないような文です。良識ある方は無視してください(笑)

実は、機関車トーマスがあまり好きではない。
なぜなら、機関車に顔があるから。というのは簡略化しすぎで、つまりは、機関車という機械そのものを擬人化しているというところに違和感を感じるからだ。
機械は機械。生物とは違う。
コンピュータもそうだけれど、どんなに複雑な計算ができても、どんなにたくさんのデータを蓄積していても、生物の意識に当たるようなものは無いし、意志を持った動きを見せることもない。
だからこその機械なのだとおもうし、そこに魅力を感じ、美しさを感じるのだとおもう。
よく、蒸気機関車は、そのロッドの力強い動きや、蒸気というエネルギー媒体の性質から、もっとも生物に近い機械、などと表現される。
それは、べつに構わないし、極端な違和感を感じることもない。
実際、蒸気機関車のロッドの動きを見ていると、ある種、生物の動きを連想させるし、その排気音は生物の激しい呼吸を連想させる。だから、蒸気機関車を生物に例えることにはなんの異論もない。
問題は、その機関車に意識を持たせて擬人化することなのだ。
コンピューターのように、人工知能の可能性をも論じられる機械ならそれも許せるかも知れないが、プリミティブな物理的メカニズムの集合体としての機械構造にその役割を担わせるのは、あまりにも飛躍が大きすぎる。
それじゃ、なぜ人は機関車や自動車など、乗り物に愛称を与えてペットを扱うように接するのか?という疑問もある。
たしかに愛称をつけるということは、その対象に愛情を抱くということを具現化していると考えられる。しかし、機械に対する愛情と、ペットや人間などの生物に対する愛情には、歴然とした差が存在するのではないだろうか。
翻って、子ども向けの様々な絵本やアニメを観察すると、これまた乗り物や機械を擬人化した例が多いことにも驚かされる。ロボットならまだしも、機関車はもちろん、船や車、建設機械、果ては交通標識にまで人格を与え、意識をもたせて自由にしゃべらせ行動させる。その会話や行動が織りなすドラマは、人間が主人公のドラマとちっとも変わらない。
これが、動物を擬人化しているのなら、ある程度納得がいかないまでも許容できる範囲にはある。なぜなら、動物行動学、動物社会学なんてものが存在するように、動物の世界にも社会的構造は存在し、コミュニケーションがなりたっていることが明白だからだ。たまに動物といっしょに植物も擬人化してしまう例もあるが、これは動物の行動に必要不可欠なカウンターパートとしての役割から無理矢理という感じで擬人化したものとも考えられる。
あ、そうか、ここまで書いて、やっと気づいた。
人間がその行動のカウンターパートとして機械を認識する場合において、機械は愛称を与えられ、甚だしくはその癖をもって性格と見なし、擬人化される。
だから、トーマスはトップハムハート卿や駅員と対等に会話し、ドラマを繰り広げる。それがさらに展開して、トーマスと同じく擬人化された機関車たちが、人間を介さないで会話しドラマを繰り広げてもいっこうに構わない、という理屈なのだ。そういう世界がある、という設定なのだと思えばそれでよい。
なんとなく自分で自分をだまくらかしているような妙な気分で、もうひとつすっきりしないが、まあいいか。
しかし、それなら、ガンダムやパトレイバーなどのモビルスーツものはどうなんだ?アトムやドラえもんみたいな、最初から意識があると設定されているロボットものはともかくとして、モビルスーツものには、愛称はあるが、擬人化した例はみたことがないような気がする。
そこには、現実世界の機関車と人間の関係のように愛称はあっても、あくまでも機械、道具としての位置づけの一線を越えないルールがあるように思う。
あ、そうだ、例外があった。攻殻機動隊のフチコマ。あれは人工知能を搭載しているから、ある種の意識を持っているし、個体間でコミュニケーションをとったり社会行動をみせたりするんだっけ。
ややこしいなあ。いい加減めんどくさくなってきたぞ。
とにかく、世の中、なんでもかんでも擬人化してドラマ仕立てにしたがる傾向があるということは確かだと思うし、それは特に技術系、理科系ではない、機械を身近に感じていない、機械をよく知らない人たち、それが大部分だろうが、そういう人たちの間では、動植物はもちろん無生物を擬人化して人生を語らせドラマを演じさせるのはごく普通のセンスなんだと言うことだけは言えると思う。
いやはや、書いてて嫌になってきた。
こういう感覚が、理性的、合理的な行動を嫌って、努力、根性、精神力で全てが解決する、というセンスにつながるんだろうな、と思う。まあ、そういうセンスの持ち主のほうが、この社会にはよりよく適応しているとも言えるのだろうが、まじめにかんがえると、やりきれないな、と思わざるを得ない。
機関車トーマスの話から、書いているうちになんやらわけのわからない、とんでもない社会分析、不満たらたらの結論もくそもない文章になってしまった。
さて、ここまでで、キーボード叩き約40分。遅いよなあ。
それにもまして支離滅裂な展開もさながら、言葉が自由に出てこない自分の能力、タイプ入力の遅さに愛想が尽きてきた。こりゃ、また真面目に一日一作文章練習を再開しなけりゃならんかなあと思うのだけれど、はたして能力が取り戻せるかどうか。
もともとたいした能力じゃない以前の問題であることは自覚しているものの、これからそのわずかな能力すらも低下していくだけというのは情けなさ過ぎるから。
まあ、今回はこの辺にして、またゆっくり考えることにする。
いちおう、キーボード打ちっ放しで読み返し、修正はしない。ミスタイプもそのまま。
ということで、本日の駄文タイプ打ちは終了します。

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